吉川 靖・「随想」

7.2008年1月 「薬害肝炎裁判」で感じること 

 2007年末に訴訟原告団と政府の和解合意が出来、そして今月その根拠となる救済法案が成立した。この間の経緯をみていて感じる。この国の官僚
や政治家に何かが足りない、それは何だろう。それは「国民の命や健康を自分たちが守る」という強い情熱であり使命感だ。それが無いとは言わない。
しかし弱い。厚労省や政府の主張もわからないではない。しかしそれは建前(法律論)、面子、保身あるいは慣習であったりする。そういうチマチマした
ことを乗り越えるパワーというか、そういうものが不足しているように感じてならない。

1)薬害肝炎
  日本人の肝炎は多くがウイルス性のA型、B型そしてC型だそうだ。ウイルスに感染しても発症しないこともあるが特にB、C型は発症、進行すると
 肝硬変から肝癌になる恐ろしい病気で感染者は350万人とも言われる。その感染原因が輸血や血液製剤など医療にあり「薬害」とされる。
  製薬会社は薬物を製造、販売し国はそれに対する承認や許可を与える。この両者はその時代の最高の知識と技術をもってそれを行う。特に厚労省は
 国民の命と健康をまもるという強い使命感をもって業務を行う必要がある。ところがこの国では薬害事件が後を絶たない。スモン、サリドマイド、クロロ
 キン、コラルジル中毒、ソリブジン等々。被害の中小規模まで数えたらキリがない。特にエイズ事件は記憶に新しい。なぜなくならないのか。
  薬には本質的に副作用がある。血液やその製剤には感染症の危険もある。それらの「害」をいかにコントロールしながら「益」を得るかが、まあ難しい
 ところではある。したがってその時の最高の科学的知見と細心の注意が必要だ。ただ科学技術は日々変化、進歩するものであるからその時点で予見
 出来ないことがあるのは止むを得ない。そうだとすれば薬による事故をゼロにすることは出来ない。しかしそれが発生した後の対応によって被害を最小
 にすることが肝要で、それが不十分な場合がいわゆる「薬害」という人災になる、ということだと思う。
  今回の裁判はフイブリノゲン製剤や第9因子製剤等によるC型肝炎患者によるもので2002年にはじまり、大阪、福岡、東京、名古屋そして仙台の
 各地裁で行われ仙台は被告の国は無罪、その他4箇所は有罪となった。有罪となった判決もその有責時期はまちまちである。なぜそんなにばらつく
 のか。そもそも裁判で(対策に急を要する)被害者が救済されるのか、諸外国の状況はどうなのか。疑問はつきない。第一「薬害」はいつ自分や家族に
 降りかかってくるかわからないという恐ろしさがある。
  1964年にフイブリノゲン製剤が認可され低フイブリノゲン血症などに医療現場で広く使われるようになった。フイブリノゲンとは血液中の凝固第一因子
 という成分で出血の際の止血に関わる重要なもの。人の血液(売血や献血)を原料としてつくられる血液製剤のひとつだ。ところが原料血にいろいろな
 ウイルスなど有害物が混入しており対策をとっても感染症の危険性がのこる。そのことは承知のうえで重篤な疾患には背に腹は換えられないということ
 で使われる。危険性はあってもその疾患に効き目があり他により有効な代替策がないばあい、その薬の使用は止むを得なかった(有用性)ことになる。
  裁判のポイントのひとつはフイブリノゲン製剤の適応症の限定あるいは乱用の防止。被害が広がった背景にはこの製剤が産科での後天性低フイブリノ
 ゲン血症などのほか止血用に産科以外でも広く使用されたことがある。この製剤の適応を先天性低フイブリノゲン血症に限定すべきだったかどうか。
 「有用性」は時代とともに変化するのでこの判断が難しく、主観も入る余地がある。ちなみに原告は後天性低フイブリノゲン血症に対し有用性はなかった
 と主張している。なんの落ち度もない被害者にしてみれば専門的なことは分からないが悪いヤツが居る筈だ、何とかしろといいたくなるだろう。しかし裁判
 となるとそうもいかないのだ。裁判の関係者も大変である。医学や薬学の勉強から始めなければならない。
  
2)裁判所の判断
  問題となっている血液製剤のうち第9因子複合製剤については概ね類似しているのでフイブリノゲン製剤のみについて判決の要点を記す。
 (1)大阪地裁
   後天性低フイブリノゲン血症に対する有用性はなかったとはいいきれず(灰色)、被告の過失を確定できない。1985年にウイルス不活化処理法の
  変更の非A非B肝炎に対する危険性をメーカーは把握できたのに適切な対応しなかったので責任がある。国はそのことを知らされていなかったが、
  1987年青森の産院での肝炎集団発生がわかった時点で有用性を否定すべきであったのでその時点で責任が発生する。また結果的に有効では
  なかった加熱製剤への切り替えも拙速で安全確保義務に違反する。
   
 (2)福岡地裁
   1977年までは先天性低フイブリノゲン血症に限定しなかったことは当時の知見では止むを得なかったが、その後米国での同製剤承認取り消し
  (1978年)などがあり1980年までには適応症の限定または緊急安全情報の配布などの対応をすべきだったので国、メーカーとも責任あり。
 
 (3)東京地裁
   1964年製造されて以降ずっと後天性低フイブリノゲン血症に対する有用性はあったので先天性に限定しなかったことについて責任はない。ただし
  国は1987年(肝炎集団発生)以降1988年に適応症が先天性に限定されるまでの間、止血などに安易に使用されていたのを放置した責任がある。
  メーカーは1985年不活化処理変更後の危険性が分かっていたはずであり(1988年までの間)適応外使用の警告を怠った責任がある。

 (4)名古屋地裁
   後天性低フイブリノゲン血症に対する有用性はあった。ただし1976年フイブリノゲン-ミドリの製造承認以降、その危険性が分かっていたのである
  から(先天性は別として)「後天性・・・」以外の使用に対し適応制限の指示や警告を行わなかったことについて責任がある(国、メーカーとも)。
 
 (5)仙台地裁
   危険性の認識がなかった国には過失はない。メーカーについては1987年から1988年にかけて一部責任がある。
  
  以上であるが裁判所の判断はまちまちなうえ、総じて国とメーカーの責任は限定的である。これらをふまえて大阪高裁で和解勧告が行われたが、当初
 は政府の和解案も司法的に責任がないものにまで謝罪や補償をすることは出来ないといった内容であった。原告側は「命の線引きは許せない」として
 投与時期に関係なく一括謝罪、救済を要求、世論や内閣支持率低下もあって政府側が折れた形で和解成立ということになった。

3)裁判の限界と政府の責任
   裁判はその時の法律に照らし被告の行為を判断する。しかも細かい条文にたいして明確に違反している場合のみ有罪となる。そもそも法律とは
  守るべき最低限を規定したものであり、それに違反していなければ問題が発生しないかというとそんなことはない。現に問題が起きているのだ。
  しかも裁判は時間も費用もかかる。したがってメーカーはともかく本来国民の側にたつべき国が国民と長期間裁判で争うこと事態問題だと思う。
   原告の要求が明らかに過剰で理不尽なら別だが、なんの落ち度もない国民が、行政等の力不足で被害をこうむっているのだ。法律はともかく国が
  結果責任を重く受け止め「もっとこうしていれば・・・」という要素をみずから探すという姿勢が欲しい。なぜ厚労省があるのか、何をすべきなのかという
  使命感があれば細かい条文を争って被害者を苦しめることなど出来ないはずだ。
   
4)厚労省の問題点
   今回の事件に関し製薬会社や医療機関あるいは政治家(政党や国会)の問題もあるとは思うが、所管官庁である厚労省について考えてみたい。
 (1)薬物の情報収集体制
    今回の事件では1978年に米国でフイブリノゲン製剤の製造承認取り消しが行われたが、その情報が得られなかった。また厚労省の関連機関や
   製薬会社のもつ情報も伝わらないことがあった。
 (2)薬物被害の情報収集体制
    問題の製剤による肝炎発症の正確な情報が把握できなかった。メーカーの報告のみを鵜呑みにして、結局誤った情報しか得られなかった。直接
   医療機関等から迅速、確実な情報を得る体制が必要と思われる。
 (3)製薬会社との癒着
    製造承認用の申請資料がズサンだったり、製造法の重要な変更を見過ごしたり、承認手続きが拙速だったり、名称のみ変更した製剤の認可を
   新薬扱いにしたため再評価時期が延びたり、メーカーの安易な適応拡大を見逃す、といった緊張感を欠いた部分があった。業界寄りの慣習や
   天下りの弊害もあるのだろうか。
 (4)感染者リストの放置
    感染者を特定できる資料を入手しながら通知や追跡調査など患者の早期救済を主体的に行うことをしなかった。これは使命感の欠如の現れと
   批判されても止むをえない。厚労省の内部調査委員会が「法的には問題なし」と言うのを腹立たしい気持ちで聞いた記憶がある。
 (5)情報公開
    フイブリノゲン製剤が使用された医療機関名を公表すべきかどうかを判断する際に、厚労省のとった対応は患者の救済よりも業界えの配慮を
   優先したと批判されても止むを得ないものであった。

   素人の私が思いつくようなこんなことは優秀な官僚たちは百も承知だと思うし、それなりの改善も行われるとは思う。しかし「情熱と使命感」は官僚
  の一個人が頑張ってもトップから末端まで心をひとつにし、かつ代々受け継ぐ体制にならなければ根付かない。それが一番難しいと思うし、たぶん
  今のままでは当座の反省が関の山で、無理だろう。その証拠に薬害事件は繰り返され、後を絶たない。ここは国民やマスコミの監視だけでなく、
  薬事行政や薬害に関し強力な権限をもった実効性のある監視機関が必要ではないかと思うのだが・・・どうなるのか。

5)薬害と日本的特質
   欧米諸国と比べどうなのか。薬害事件や裁判は欧米でもやはりあるようだが日本は件数や規模などでワーストの部類に数えられるそうだ。
  その原因としての日本独特の事情。そこには製薬会社が製薬にかかわる研究者を取り込み、薬効や安全性より利潤追求を優先しており、そして
  行政がそれを許しているという官業癒着体制があるという。薬漬け医療、高価で無駄な新薬開発などもその現れだろう。
   政官業の癒着ということは薬害だけでなくいろいろな局面で指摘されてきた。歴史的にこの国の成り立ちを考えてみれば当然かもしれない。
  市民革命によって民主化さらに近代化を成し遂げたヨーロッパやその流れをくむアメリカと違い、支配層主導で国のかたちを欧米に模し産業を振興
  させてきた。そこでは政治家や官僚は国民の代表や僕ではなく国民を支配統治する存在であった。その後進性、特殊性が今だに払拭されずに
  残っているということだろう。戦後の高度経済成長もそれによって達成されたとも言えるが、その限界が時代の変わり目で顕在化してきている。

                                                                                おわり 
  

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