(作者略歴)に戻る 吉川 靖・絵画作品-「絵のこと」
INDEX 1.まえがき 2.何を描くのか 3.どう描くのか 4.なぜ描くのか 5.今まで、そしてこれから
6.風景スケッチ 7.形の見え方
8.絵画の幻視と平面化
1.まえがき
絵を描く人間であれば誰しも「何を、どう描いたらいいのか」、そもそも自分は「なぜ絵を描くのか」、など日頃の創作活動のなかで考えると思います。
何の迷いもなく描きたいものを描いてそれで満足できていれば一番幸せなのかもしれませんが、なかなかそうもいきません。迷ったり悩んだり苦しん、
だり・・・でもやめられない。そんなことの連続でもあります。
自分の考えていることを整理し、また衆目にさらすことでそれを鍛えることになるかもしれません。そんなふうに思い日頃考えていることを「何を描くの
か(テーマ)」、「どう描くのか(技術)」、「なぜ描くのか(目的)」などについて思いつくままに書いてみます。その筋の人からみると「お笑いぐさ」と一蹴され
そうで恥ずかしいのですが、まあそれも仕方ないでしょう。
2.何を描くのか
絵を描くということは個人的な営為ですから自分の描きたいものを好きなように描けばいいわけです。しかし描いたものを他人に観てもらいたいという
欲求もあります。つまり社会的な表現行為であるといっていいと思います。天蓋孤独な無人島でも行う「描く」という行為もあながち「ない」とは断言できま
せん。しかしそれは例外と考えていいでしょう。
近代において絵画表現にはおおきく分けて2つの立場があるように思います。1つは自己の内的欲求のみを動機とする芸術至上主義的な考え。いま
1つは社会の発展に貢献すべきという社会主義的な考え。乱暴な言い方になるが前者は「感じたことを描く」、後者は「考えたことを描く」という傾向があ
ります。実際にはきれいに2つに分けることは出来ず、両要素が混在する場合が多いと思いますが、心情的にどちらかに力点があるということでしょう。
私は前者の立場です。「社会のため」などと考えるのは私にとって偽善でしかない。しかし芸術至上主義が陥りやすい一人よがりではまずい。自己を
追求して他人にも共感される普遍性を得たい。さらに自己追求の結果として社会性が表出されることもありうる。それでよいのではないか。
「何を描くか」といった場合それは描く対象としての物、つまり風景とか人物とか静物(あるいはその組み合わせ)の意味と、いま1つは自然賛美、郷愁、
憧れ、哀感、喜び、怒り、情熱、感覚的快感など感興の内容の意味があります。もちろんこれを別々に切り離すことはできないが、両方の意味合いがあ
る。
とくに近代は「何を描くか」より「いかに描くか」が重視される。その昔、芸術は宗教や貴族に奉仕する時代にはテーマは重要かつ限定されていた。
しかし近代になって個人の尊厳が重視されるようになり「何を描いてもよい」、問題は表出された人間性だということになった。またセザンヌ以降かたち
とか色とかマチエールなど画面の様態が重視され、何が描かれているかは二の次の問題になった。その考え方からいわゆる「抽象画」が生まれる。
一方社会主義的立場においては主題は重視され、ともすると教条的「テーマ主義」に陥りやすい傾向がある。
日々の生活のなかで興味をひかれることは多い。基本的に「面白い」と感じたものは何でも表現行為に結びつけることは可能です。よく「感動」から
絵を描くといいますが、感動という言い方は少し大げさだと思います。心を揺さぶられるようなものはめったにない。そんなに構えたら絵などかけない。
心に生じたさざなみあるいはちょっとした興味でいいと思っています。したがって私は風景も人物も静物も描きます。仲間といく写生会やデッサン会など
即興的に感覚のおもむくまま描きます。うまくいかないことが多いですがこれはとにかく楽しい。
私はどちらかというと内向的人間で、身近なものや風景あるいは自身を見る傾向があります。見知らぬものや珍しい外国風景などにはほとんど興味
がもてません。風景であればごく近場の、しかも生活のにおいがするゴミゴミしたようなところに惹かれます。幼年期の生活空間の記憶も影響している
のでしょう。品のよいきれいなところは苦手です。自分は庶民だ、それが絵を描いている(昔の庶民はできなかった)。その庶民感覚を主張しているのだ。
というような、気負いまでいかないが、頭の隅にそんな考えもあるかもしれません。
最近私の場合じっくり時間をかけて描くのは種々の状況から静物です。部屋の片隅にものがあり、そして空間があります。やわらかい光、ほの暗い陰。
そこには空虚さや哀感や神秘さ(というと少し大袈裟か)を感じます。それは自分の生の実感とも通じるものです。言葉には言い表せないそんな感じを
画面に定着させたい。そんな想いで描きます。
3.どう描くのか
1)表現様式
過去そして現在いろいろな絵描きがいろいろな描き方をしています。具象、抽象、半具象。同じ具象でも(外見的)写実や自由な変形までまちまち
です。現代絵画のなかにはイリュージョンの否定、つまりただの絵の具のついた平面なのにあたかも物や空間があるかのように見せるいわゆる「騙し」
「虚構」「幻視」を否定するといった考えです。いわゆる抽象絵画もこの考え方近いのではないか。これは小説や演劇と同様、虚構(架空の物語)のなか
に真実を表すというやり方を否定するようなもので、なぜ否定する必要があるのかわたしには理解できません。またコンセプチユアルアートという理屈
が先行するようなものもある。 私の無知や誤解かもしれませんが、これら現代絵画といわれるものに違和感をおぼえます。意表をつく、 おちょくる、
謎かけ・・・など素直に受け入れることができないものが多い(全部ではないが)。
私は絵を描きはじめたころから写実表現に親近感をおぼえています。アカデミズムだ、時代遅れだと批判されたこともあります。しかし好みは理屈で
はない。岸田劉生が当時最新の印象派的表現から、さんざん悩んだあげく写実にもどった気持ちがわかるような気がします。アメリカの現代画家ワイ
エスも写実にこだわっています。絵にも流行があります。その最先端を追うのもいいでしょう。しかし新しいものがいいとは限らないし、少なくとも写実は
時代を通底した表現形式だと思っています。わたしは理屈より好みで写実的具象にこだわっています。
デフォルメに関していえば私は禁欲的です。簡単にいえば見えとおり、感じたとおりに描く。それを限界まで努力して結果的に形や比例がかわるのは
よい、という考えです。絵は自己主張だから自由に変形してよいという人が多いと思います。それが自由にできればすばらしい。でも私の場合「タガ」を
はずして自由に、となるとすぐ「うそ」をついてしまうのでだめです。
この禁欲的写実はただの対象のコピー(自分がない)、面白みがないという非難がつきまとい私を苦しめてきました。反面その昔、故川上慰平氏
(春陽会)から「素直でよい」といわれたのが心の支えにもなっています。結局は対象え迫る力量の問題かなと思っています。
2)リアリテイ
絵に限らず表現行為で問題となるのは「どれだけ率直に本心を出すことが出来るか」だと思う。それがリアリテイでしょう。他人に自分を晒すとなると
どうしても格好をつけてしまい勝ちになるし、自分の本心に迫ること自体簡単ではない。せっぱつまった問題意識があればまだ楽な気がするが・・。
何を描くかとも関連するが、結局日常的な「ひっかかり」を深く掘り下げるということだと思うが、言葉のようにはいかないのが現実です。
さらに表現には「絶叫型」と「平静型」(仮称)があると思う。前者のほうが迫力がありそうですが、私の場合は性格的に後者です。無理をして
絶叫してもしっくりこないので。
3)表現材料
何を使って表現するのか。絵を始めたころは「絵の本命は油彩」といったような漠然とした考えがあったように思う。日本画もあるがやはりリアルな
表現に惹かれ、またまわりの仲間も当然のように油彩であった。しかし50歳くらいになって重い、苦しいなど違和感をおぼえるようになった。一時アク
リルとかテンペラ混合なども試みたがしっくりこない。それまで軽く考えていた水彩をやったら全く絵にならない。自分はこんなに下手で未熟だったと
いうことを痛感し、何とかしたいと腰をすえて取り組むようになる。それが結局やみつきになり現在にいたった。
透明水彩の清明さ、簡便さ、軽快さは魅力です。アンドリュ・ワイエスをみて油彩に負けない強さをもった水彩もありうることを知り、自分なりに清明さ
と強さを兼ね備えた水彩画を描きたいと考えるようになった次第です。
何をつかって表現するのかは作者の肌にあうかどうか、これに尽きると思います。また固定する必要もない。いろいろやればいい。油彩が上、水彩は
下などと考える必要はないと思います。
水彩用の材料としては現在紙はアルシュ水彩紙(300g荒目のロール)を、絵の具はホルベイン透明水彩、筆は大中の平筆、大小の面相筆などで
メーカには特にこだわっていない。紙もそんなに多種を試したわけではないが、絵の具の吸収力や発色さらに修正のしやすさなどからほぼ固定してい
る。マスキングインクはときどき使用、その他のメジュームはほとんど使わない。いろいろなテクニックや材料があるようだが、ほとんど関心がない。
もっと正確に言えば基本的な材料と技法をまだその限界を感ずるまで極めていないということで、限界を感じたらそれを打破するためにいろいろ工夫
すればよい(ここでも禁欲的?)と思っています。
4)課題
絵の重要な要素として「感覚と技術」ということが言われる。作者の独自な感覚を的確で高度な技術で表現すること。そこにリアリテイをもって人間
性や時代性が現れ、観るひとに響いてくる。そんな絵が描けたらいいと思います。まあ一生かかっても満足なものは無理でしょうが、目標はそういう
ことです。
私の場合の課題を具体的に挙げると、
・透明水彩の清明さを損なわず、デッサンや構成の堅牢さと色面の深みで絵としての「強さ」をだすこと
・表現目的に沿った、めりはりのある「強調」と「省略」を行うこと
・ともすると当初の「表現目標」を忘れ、それらしくまとめてしまうことが多いので常に(その絵の)初心を忘れないこと
4.なぜ描くのか
生活の糧を得るために絵を描いている人もいるでしょうが、ここではそのような目的あるいは動機ではなく自己の内的欲求としての表現行為。その
根源にあるものは何かを自問します。
人間はいっさいの表現行為を封殺されたら精神的に異常をきたし、おそらく死んでしまうでしょう。芸術的表現は身体表現など生命維持に必須の表現
とはいえないが、人間特有のものでしょう。芸術表現は封殺されてもおそらく生命にかかわることはない。しかしそれによって精神や身体が安定し満た
され快感を得るもので、原始時代にもあったことを考えれば人間にとって相当重要なものに違いない。
私自身のことを内省すれば、絵を描くことで、ほっておいたら気がおかしくなりそうな心のもやもやを晴らし精神の安定をかろうじて保っているような面
がある。おそらく絵以外のことでもよいとは思うが、いきがかり上絵にしぼってきた。つまり「心の闇」のようなものが根っこにあるようにも思う。
私は自分に対する他人の視線や反応を極度に気にする少年であった。心理学的になんとか妄想というそうで、そこから対人恐怖症などの社会不安
障害に至ったと考えられます。個人的な資質と当時の生活環境が影響しているのでしょうが、原因がはっきりと特定できているわけではない。それは
ともかく必要以上に肥大化した「超自我」が自我をつねに監視し非難した。その結果社会えの適応障害となり「殻に閉じこもる」「無口」で「暗い」人間に
なった。
明るく何の陰もコンプレックスもない人を見るとまぶしい。どんなに心が自由で生きているのが楽しいか。いや、外見はともかく人は多かれ少なかれ悩み
をかかえていることは承知している。しかし適応障害にまで至るのはしんどい。自分なりに適応する努力はしてきた。でもいまだに乗り越えた、あるいは
解決出来たとはいえない。いつの間にか人生や世の中を悲観的にみる、あるいは自己卑下が身についてしまった。うまくいえないがおそらくその辺の
もやもやが心の深層に沈殿している。時々吐き出すことで平常心を保っているのではないか。また自信のない適応障害の人間にとって「取り柄」、
「生きがい」、「他人との接点」などが必要で、それが私の場合「絵」であり自分を保つ要素にもなっている。また自然や人間などにふれてその美を見つけ
愛でるのは理屈抜きに心地よい。それやこれやで絵を描いている。
創造の醍醐味(2012.10追加)
絵を描くということは平面に生命体や空間を作り出すこと。仮想現実ではあるが、西洋では万物の創造は神の特権であり、それを人間が行うということ
になる。その不遜さは刺激的で西洋人でなくともある種のスリルを感じる。とまあ理屈を考えるわけだが、とにかく楽しい。うまくいかないことが多いがその
困難さも喜びを増す要因であろう。
5.今まで、そしてこれから
私が絵を始めたのは25歳くらいで、会社の美術クラブ(石川島美術研究会)に入会してからです。このクラブは歴史のある会で、勿論趣味的に仕事の
余暇に絵を描く人たちもいましたが、プロの絵描きを目指すような人たちもいました。ここで多くのよき先輩や友人と知り合い、技術だけでなく絵に対する
考え方など多くのことを学びました。その中の何人かとは現在にいたるまで日常的に交流しています。特定の指導者はおらず、メンバー同士が厳しく
そして楽しく学び合うという伝統がありました。
当時は企業の福祉活動として従業員の文化活動が盛んでした。そして各企業のサークルの横のつながりを担う機関として全日本職場美術協議会が
(今も)あります。そこで同じように働きながら絵を描く多くの人と触れ合うことが出来ました。絵を描く人間にとって視野を広げることの重要さを痛感
します。この会を「誰でも参加できる」ような会にして今後も継続、発展してほしいと願っています。
私は東京深川の生まれで戦後の荒廃した下町の環境で少年時代を過ごしました。その頃の雰囲気が残る風景は心に響きます。
(1)「深川・木場」 (2)「高速道路」 (17)「枯花」
(1)はそのような風景のひとつ。隅田川の支流の運河です。昔はこのような釣船屋があちこちにあり、筏(いかだ)も多く見かけました。1974年ころ
油彩で描いたものです。
働きながら少しずつ絵を描いていましたが、30代なかばに、美校で勉強したいという気持ちから武蔵野美術大学の通信教育を受ける決心をして始め
ました。会社で働きながらですから思った以上に大変で、スクーリングなどまとまった休みが必要なときは冷や汗ものでした。短期大学ですから正規2年
のところ限度の6年もかかってやっと卒業しました。(2)はその卒業制作作品です。当時はすでに現在の船橋に住んでいましたが、懐かしい木場に異様な
高速道路が出来て複雑な気持ちでそれを見、現場に通って油彩で描きました。
ちょうど1990年〔49歳)に、かねて考えていたとおり会社を辞めました。もうすこし腰をすえて絵を描きたい。同じ一生なら悔いを残したくない。
そんな気持ちでした。プロの絵描きになりたいとかではなく、好きなことに集中したい。それだけでした。経済的なこともありその年になったのです。その後
もずっと油彩画を描いていましたが、精神的な負担から別の材料で描きたくなり、アクリルや、卵黄テンペラと油彩の混合技法も始めましました。(17)は
そのときの混合の作品です。
1993年ころから水彩を始めました。その材料をまったく扱うことができずショックを受け、とにかく枚数を重ねるしかないと考え1年で1000枚を目標に
描くことに決めました。働き盛りの男が平日の日中自転車でふらふら俳諧するのはやはり抵抗がありましたが、日やけし風邪をひかなくなりました。結局
900枚くらいで目標には到達できませんでしたが、気がつくと少し絵の具や紙に慣れました。変化の実感は階段状にくるのかな・・という感じでやはり
一定の効果はあったようです。(25)はその頃の1枚です。
(25)「船橋」 (51)「朝」
日本人の水彩画家も気になりました。浅井忠、石井伯亭、大下藤次郎、吉田博等々すぐれた画家がいたこと、彼らによって水彩が普及し
日本水彩画会、水彩連盟など水彩専門の団体があることなど知りました。日本水彩画会の千葉支部展にはじめて出品したのが(51)です。
日本水彩画会には優れた画家が多くいますので、今後もここで勉強させていただきたいと思っています。
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