(作者略歴)に戻る 吉川 靖・絵画作品-「絵のこと」(続き)
6.風景スケッチ (2008.10.15)
2008年は風景スケッチ行脚再開の年にしよう。そう決めたのは2007年も終りに近い頃でした。なぜ? 思えば「風景画」からしばらく遠ざかっていた
気がします。もちろんまったく描かなかったわけではなかったが、風景など描く意味があるのか。描いてなにになるのか。漠然とそんな思いが頭の片隅に
あったのです。そんなことを言ったら「絵など・・・」も同じことなのは少し考えれば明らかなのに。また、理屈ではないことも分かっているはずなのに。
他人様の風景画をみて「いいなあ」と感じたり、たまに自分で描くとまったくうまくいかない。へたをすると人様にアドバイスしなければならない役回りに
なるやもしれない。何年描き続けてもこのざまだ、なんとかしなければ。そんなもやもやを少しでも晴らしたいという思いがきっかけでした。
天候や私事の都合でだめな日は除き(以前のように粗製濫造を避け)1日1枚描こう。こう決めて自転車で近所まわりを始めたのは2007年の末でした。
曇って風の強い寒い日、小春日よりの日などいろいろですが腰をおろすポイントを決め鉛筆デッサン、下塗りが終わるとそれをながめながら持参したおに
ぎり、カップラーメン、熱いお茶で昼食。最初の数日は途中のコンビニで缶ビールを買ってほろよい気分。さすがこれには「毎日これをやるのか?」という
後ろめたさから止めました。お金もかかるし。
作品のほうは思うようにいかないことが多いのですが、それでもこの日々は文句なく楽しい。理由はよく分からないがとにかく心が満たされる感じ。
以前の修行とかノルマとかいう精神的重圧がそれほどないのも一因かもしれない。
制作を続けるなかで「どこを描くのか、どう描くのか」自問自答。結局風景を選ぶポイントは「構図プラス感興」ではないか。構図とはなにか。対象のもつ
かたちや明暗などを画面においたときに出来る「動きとバランス」、それによって画面に生まれる生命感。それは自分が生きている、光や空気、生き物の
気配などそれらがあるこの現実空間が「紙」という無機質の平面にすくい取られた瞬間であり、その不思議さ。野見山暁治さんが「絵の本質は手品」という
意味のことをある講演会でいわれていました。その生命感の再現の基礎になるのが構図だと思う。動きとバランスは理論もいろいろあるようだが、結局
自分の感覚。作者自身が「だめだ」「できた」など感覚的に判断するものだ。鉛筆デッサンで見当はつけるが絵の具の色や明暗やタッチなどが入って
確定する(かたちや色や線などの配置、さらに明暗関係や線や色価で表現される奥行きも含めてここでは「構図」と言っておく)。
風景のこのポイントなら構図ができそうだというのを直感的に見つけることがひとつ。つぎに感興。実はこれがもっとも重要なことではないかと思ってい
ます。感興=感動、印象、感じ、セザンヌのいうサンサシオンか。風景のばあいその場にたって感じることがすなわち「感興」であるが、「枯草の色が
やけにきれいだ」とか「木々の枝や幹の動きが面白い」など色やかたちの面白さがひとつある。次に空間の広がり方や光や空気(温度、湿度、風)や空の
様子などから生ずる気分がある。また目に入る木々、草、畑、田んぼ、家々、諸々の建造物いずれも人間の作為がそこにはあり、あらゆるところに自分も
含めた「庶民」の生活が息ずいており、生活臭やある種の感慨が呼び起こされることもある。いはば自分が生きているこの世界の事物が「生(せい)の
実感」として感覚される。それらが表現目標としての「感興」でしょう。
観察者が何にどう反応するかは、その人の人間性や人生観、世界観にもつながってくると思うが、あまり思想的なものを意識すると「こじつけ」や「嘘」
になる危険があり、かりに嘘はなくとも「饒舌臭」がつきまとってしまう。スケッチを基にした本絵でも気持ちの確認や掘り下げを行うにしてもその点には
注意しなければ、と思っています。さらにいまひとつ、「感興」がはっきり意識されないまま「構図ができそうだから」と仕事を始めてしまうこともあり、この
場合かりにそれなりに描けたとしても後で後悔することになる。結局肝心の目標がないわけで、面白みのない作者の心が見えない絵になってしまう。
私の場合そういうことは結構多かったし今もあることを自戒をこめて告白しなければなりません。
いずれにしても「感興」は理屈ではなく直感的に感じとるものであり強弱も含めいろいろありえるが、たまには強い印象を受ける掘り出し物に出会う幸運
もある。一例がこれ(332)です。
(332) (352)
むき出しの地肌が強烈でした。その荒々しさ、生々しさから想起される不安や恐怖に似た感情も込めて60号にしたのが(352)です。
道端で描いているとよく人から声をかけられます。むかしはそれが嫌でたまらなかったが、今はそれ程ではない。そしてほとんどそれら全てのひとが
悪意や敵意が微塵もなく好意すらあらわしてくれる。田んぼの農作業の人など「じゃまだから」と言はれても当然なのに、である。ありがたい気持ちで
いっぱいになる。「こんなところが絵になるんですね、地元にいて初めて気ずきました」、こんな言葉がとりわけ嬉しい。なんでもない平凡な処に「なにか」
価値(?)のあるものを見つける。ジャスパージョーンズ(米国現代作家、あまり好きではないが)のことばに「いろいろな新しい見方をみつけ人生を豊か
にすることが芸術活動の目標だ」というのがあったように記憶する。
今は10月。これまでの作品数は140点ほど。2日に1点の計算になるが数はあまり気にならない。それより作品の内容が問題だ。水彩スケッチは
即興でもあり、やはり色の新鮮さ、タッチの切れも重要だ。なかなかうまくいかない。でも楽しい。来年以降もしばらく続けたいと思っています。
( この項終り)
7.形の見えかた (2010.4.3)
団地のアパート(図-6)を描いていてどのようにすればよいのか分からなくなりました。現場に陣取って自分の感覚にあうようにするのがいいのですが、
障害物があったり他人の邪魔になるため写真を利用しました。しかし写真は自分の感覚と随分違うのです。昔聞きかじった遠近法(透視図法)にも
漠然とした疑問がありました。例えばダビンチの晩餐図の壁や天井は消失点からの放射線に沿ってどこまでも大きくなるはずがない。
そこで人間の目にはものの形はどのように見えるのか、この錆び付いた頭で数日考えたわけです。間違っているかもしれないが一応メモを残して
おきたくなりました。
図-1に示す四角い平面の前に立ち正面を正視し、頭だけをまわしたときその平面の見え方がどう変わるか考えました。問題を簡単にするため複眼では
なく単眼とします。
まず平面のA点を見ます。つまり視線は平面に直角になります。A点を通る水平線(水平軸)と垂直線(垂直軸)は眼球から離れても直線のままです。
一方軸から離れている水平、垂直線はいずれも眼球から離れるにしたがって軸との間隔が狭くなります。つまり図-2のようになると考えられます。
次にB点を見ます。視線は平面に対し斜めになります。この場合B点を通る水平線を水平軸、垂直線を垂直軸としてそれらから離れた水平、垂直線
は図-3に示すように太鼓状にふくらんだ形となりA点のところから外れるほどすぼまってきます。
さらにC(消失点)の方向を見ます。視線は平面と平行になります。平面は視点から外れていますから直接は見えませんが視野に入る部分と外れる
部分を含め図-4のようになるものと考えられます。つまり水平線は水平軸から離れたものはその間隔は(眼球に最も近い)A点が最大で、そこからはずれ
ると狭くなり消失点ではゼロになります。垂直線は消失点を通る垂直軸に向かってその間隔を狭めていきます。このことからダビンチの壁と天井の堺は
消失点からの放射線(直線)ではなく壁の高さを頂点とした山形の曲線であり、柱は垂直ではなく上にいくほど内側に曲がる曲線になるはずなのです。
図-6
以上のことから人間が対象を見るとき視線を移動すると形は次々と変化することが分かります。また視点ははっきり見えますが周囲はぼんやりとしか
見えません。視界から外れるとまったく見えません。例えば団地のアパートを少し斜めに見たときその形は図-5のようになると考えられます。建物の
端は湾曲していますがそれを確かめようと視線をそちらに向けた瞬間に垂直になってしまいます。一方写真は焦点から外れた形もはっきり捉えます
(図-6参照)。ただそれは視線を移動しながら見る人間の認識とずれがあります。視線に応じ次々と姿を変える対象の全体の形はどのように画面に
定着させるべきか大変迷います。結局は理論や写真を参考にそれらを調整して現場での感覚に近くなるように試行錯誤しながら決めるほかありま
せんでした。
ついでに複眼の効果も写真との違いの原因になります。例えば図-6の建物の左端を見たとき奥行きの側面が人間には見えても写真には写らない
ことがあります。建物に限らず全ての対象物の輪郭やかたちは私の目には揺らいで見えます。左右交互に片目で見た形が微妙に違いますが、それを
両目で同時に見るためかもしれません。写真のようにくっきりとは見えません。これらを踏まえ結局は自分の感覚に近いかたちをデッサンで探すしかない
というこかもしれません。(この項終り)
(メモ)2010.6.21 アクセス数10,000を超えました。つたない内容にも関わらず見ていただいた方々に感謝の念で一杯です。
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